漆塗り 仏壇, 漆塗り 屋台, 私信

真剣

 

自営業をしていますと、独りよがりになったり視野が狭くなりがちです。ましてや職人稼業、なおさらです。そうならないためにも30代半ばから特に、各種団体には少し積極的に入らせていただき、様々な学びを得ました。

もう50代となり、色々落ち着いてきた(つかれてきた?)ので、徐々にそんな対外活動も縮小気味ですが、いくつかはまだ所属しており、姫路経営者漁火会もその一つです。

この会は、「立派な日本人たれ」の想いを胸に、この日本を守っていこうとする志の者が集まり、月一の勉強会を中心に日々活動をしております。4月勉強会は自分の担当回。かねてより心安くしていただいています明珍宗裕師をお招きし、先日開催しました。誰もが知る明珍火箸さんの二男さんです。日本を代表する刀工であられます。

 

日本刀は単なる武器ではなく、美そのものの対象です。

けれど西洋の剣のように装飾によって美を求めるのではなく、素材と姿、それ自体が発する美がある。そこには魂が宿り、ときにご神体ともなる。日本刀は日本人の精神性を映す、日本文化の柱だと感じます。

さまざまなお話の中で、「自分を手放したとき、うまくいく」という趣旨のお言葉がありました。終始飾らない謙虚さの中で、その一節が特に印象に残っています。

 

ものづくりの視座で見ると、日本刀にまつわる世界は、どこを取っても驚くほど精緻です。その一つひとつの積み重ねが、言葉を失うほどの圧倒的な存在感を生んでいるのだと思います。刀そのものについて伺ったことを反芻し始めると尽きないので割愛しますが、「付属品」ですら凄まじい。

たとえば鎺(はばき)。安定した納刀のための精密さはもちろん、そこにはさりげない装飾が施されています。よく見ると点々が見えるのですが、「点があるように見せてはいけない」のだそうです。無いようで在る――そうでなければならない。

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鞘もまた然り。一見すると無垢の木に見えますが、そんなはずはない。無垢なら、どうやって刀身の入る間をつくるのか。

実際には一本の木を二つに割り、刀身の収まる空間を彫り下げ、再び合わせている。けれどその精度たるや、よほど注意して見なければ継ぎ目は分からないどころか、まるで無垢材のように木目が自然につながっているようにさえ見えます。

 

驚くべき世界です。各職人の「真剣」に、大いに刺激を受けました。

 

祭り屋台や仏壇の仕事は、誤解を恐れずに言えば、もう少し「荒い」。
けれど、それはスケールの違いでもある。

羨望しながら、羨望のままで終わらせず、そこで感じた高揚を自分の世界をさらに高めていく力へ繋げていきたいと思いました。

日本弥栄。