私信

何を残せるか(後編)

 

組合旅行二日目は、一週間前の雨予報が数日前に曇りに変わり、当日は晴れて青空が覗いてくれました。

初日にお宿のご主人が「せっかく遠い所来て下さったのに信州の山並みを見て貰えないのが残念」と何度も仰せでしたので、少し期待の最終日です。

 

まずは善光寺にお参りしました。

 

善光寺さんは宗派がないそうです。それで浄土宗の『大本願』と天台宗の『大勧進』という二つのお寺が交代で法要、協力して維持管理をされているそう。知りませんでした。

そのうち、仁王門手前にある大本願さんは代々尼寺で、もともとはお上人さんを宮中から迎えられていたそうで、その名残で菊の御紋が使われています。でもよく見て下さい、真ん中に何か見えます。

畏れ多いことなので菊の花を下から(裏から)見た紋になっているとのことです。なるほど。

 

こちらは山門。江戸時代中期の寛延三年(1750)に建立、国の重要文化財に指定されています。国内に現存する最大の栩葺(とちぶき)建造物だそう。

そんなこんなをガイドさんに教えて頂きながらゆっくり回りました。本堂は国宝。

 

本堂内には「戒壇巡り」というものがありまして、内陣後方の下側に降りていく通路があり、暗闇の中、感覚的には3,40メートル壁伝いに歩いて回ります。その暗闇は本当にまったくなにも見えない暗黒で、おっさんでも途中少し不安を覚えるほどでした。で、その道中に取っ手のようなものがあり、それを探してのそりのそり恐る恐る進むのです。この取っ手は絶対秘仏とされる御本尊『一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来』と結ばれており、触れることで直接ご縁を結べるそう。

おもしろかったです。子供さん連れで行くとぜったい楽しいと思います。おすすめ。

 

その後仲見世通りにある宿坊で精進料理を頂いたのち、小布施町へ。これがまたとても素晴らしかったです。

葛飾北斎の町でした。

 

江戸生まれの葛飾北斎は晩年、小布施町の豪農で自身も浮世絵師である 高井鴻山(たかいこうざん)に招かれ、この地で過ごし絵を描いたそうです。高井鴻山は現代で言ういわゆるパトロンで、北斎の生活の一切を引き受けました。生涯百回とも言われる引っ越し魔で有名な北斎はこの地を愛し、途中出入りはあったとはいえ五年も過ごしたそうです。よほど気に入ったのでしょう。碧漪軒(へきいけん)というアトリエも提供されるなど何不自由なく過ごした北斎は、然して大作を残しました。

その北斎が残した絵の実物を小布施町ではいくつか間近で見ることが出来るのです。

まず訪ねた『北斎館』という施設には、その当時の祭屋台が二台展示されていました。

 

こちらは東町屋台、この天井画が北斎作。龍・鳳凰 図。天保15年(1844年)、北斎85歳。

 

もう一方は上町屋台。怒涛図。

 

男浪(おなみ)。

 

女浪(めなみ)。縁の絵も見事です。北斎の下絵を基に鴻山が彩色したそう。弘化二年(1845年)。

実物です。こちらをガラス越しとはいえ至近距離で見ることが出来ます。
(屋台に付けられているものは複製。)

時間が止まりました。

 

 

更に圧巻だったのはこちら、岩松院

岩松院はのどかな里山にあって、外から見る分には特に目立ったこともない田舎のお寺さんの風情ですがその内部に凄いものが。

 

天井画です。写真撮影禁止でしたのでパンフレットです。

畳21畳分の天井画。葛飾北斎最晩年の大作「八方睨み大鳳凰図」。完成は嘉永元年(1848)、北斎89歳の時の作品。

もちろん実物です。息を吞みました。

 

 

内容をよく知らないまま発った旅行でしたが、とても良い経験をしました。

 

時代下っても残るものは何か。それは普遍的な価値を有し人の心をいつまでも惹きつけるものです。

我々造り手が残すものは想いだけであって、残るかどうかは後世の人が決めること。

 

いかに想いを込めるか、心から向き合えるか。

光を放ち続ける数々のものに接し、一介の職人としてそんなことを改めて思い起こさせてくれた二日間でした。

職場を放るのはわるいことばかりではありませんね。またがんばります。

 

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