つれづれるままに

日記の部屋 (〜4/7)
TOPページはこちら

2010年4月7日(水)
現前

 あるご縁で先日知り合いになった方が先週末ご来店くださいました。上の屋台を’持って’。

そう、精巧な屋台の模型です。氏は実物の屋台から採寸し、造られるそうです。やはり。
と言いますのは拝見していて見心地が良いんです。頭の中にあるそれぞれの形、相対的な位置関係と合っているからなんでしょうね。一番上の画像を見ていただければ納得されるとおもいます。

見ていて飽きません。ホーゥ、おぉーとずっと言ってしまいました。



どうやってされてるんですか? いろいろ聞かせていただきました。アイデア満載です。定期的にホームセンターや手芸店に通い、使える材料とか探し当てられるそうです。言い出せばキリがありませんがたとえば錺(かざり)金具までご自身で造られるそうで。。
本当に恐れ入りました。


 
ご本人曰く趣味とのことですが製作のご依頼が絶えないそうです。それは当然でしょうね。

 世の中には素晴らしい方がたくさんいらっしゃいます。人間のチカラとか可能性って無限だとおもいます。
わたしももっと頑張ろう。


Everything you can imagine is real.

想像できるものは、すべてリアルなのだ。

ピカソの言葉



2010年4月6日(火)
新年度
 ことしもはや四分の一がおわりまた新たな年度初め、
小さいゴールを繰り返しながら日々は続きます。


 お納めが近づいております淡路の檀尻の進捗報告です。



上は柱と勾欄(こうらん)の欄干、泥台の部材の一部です。

下地修正したり漆で木目を出したりしている途中段階。
赤線を引いているのが欄干の一番下と真ん中の部材、緑が一番上の丸棒。色が違います。
じつは違う種類の木が使われていました。
色を合わせて(ここも天然材料)、仕上がり時には同じ見た目になるようにします。

柱は屋台の柱と大きく異なる点がお分かりになりますでしょうか。わたしどもも初めて経験しますが泥台の延長が直接棟を支えるいわゆる四本柱となっています。


こちらは塗り上がり時。うち一本は損傷が激しく新調としました。
漆特有の色付きでかわき始めが濃く画像では真っ黒ですが、徐々に透けて木目が見えてきます。





こちらは屋根、

もともとは木地の色のままニス(あるいはクリアー)がひいてあったのをこのたびは吟味の上、金・朱漆・黒漆・透き漆、を各部に分けて配色します。
この画像は漆の上塗りが完了する少し手前の状況です。ここから完成時にはまた大きく変わります。


上の屋根の上にさらに蒲団(ふとん)が三重(?)に乗って、頂の棟がこちら、

六尺くらいあります。
下地研ぎ(もちろん手作業)中です。全て漆による下地(堅地:かたじ)です。


砥石の目を細かくして研ぎ上がり。


中塗り完。


そしてまた研ぎ下ろし。
漆の塗り面を研ぐ場合は油桐などの木炭を使います。
奥が研いでいるところ、手前が作業前。


余談ですが左に獅子頭が並んでいます。そのひとつは、取っ手の一部を指に沿うように、とのご要望で加工しています。↓



こんなときの下地付けは箆(へら)なんかより正味指で付けたほうが早いですし、仕上がり後やはりよくなじみます。
一般の方が真似したらどえらいことになります。



 ほか厨子の製作で長くお待ち頂いているS様、文書箱の漆塗り(根来塗り風)と一輪挿しのT様、ミニ屋台のお客様、、
ご迷惑をお掛けしております。鋭意作業を進めておりますので何卒宜しくお願い申し上げます。



2010年3月30日(火)
春の荒天
 「雪降りようやん・・」
おもわずひとりごとが出てしまいました。きのうの17時半すぎ。漆塗りの合間に用事で職場の横の物干しに出た拍子、白いものがちらついているのに気付きました。結構横に降っていました。公園の桜はもう開いてきたというのに。頬を通る風はまさに冬のそれでした。

 ところで播州弁は繊細ですね。今まさに雪が降っている現在進行形のこんなとき、「雪降りよう」。
朝起きて外に雪が積もっていたとき、「雪降っとう」。

日頃から言葉には力が宿るとおもっているクチですが、ただでさえ表現の豊かな日本語の中にあって普段使いのことばがこんな「言い分け」ができるなんて。播州弁、素敵です。


 さて言葉というと先週末のお祝いの席は’おめでとう’が溢れていました。そんな場にお招きいただく機会がここのところ続きます。光栄なことです。

「おめでとう」 にも力が宿っている証拠に、それを受ける側も発する側のこちらも心底の笑顔。
その瞬間、その場、その間にはなにも介入しない’しあわせ’だけが漂っています。

 そんなことを共有できる仲間や自分の周りの人々があってこそ自分がある。そうおもえる自分なら、もっとこの一回きりの人生を深く生きられるようにおもいます。




なんて言いながら、新婦の前で新郎を奪うという悪ノリのあと、やはり眠りに就くお約束のわたし。
マイペースにも程があります。反省。
ちなみにO型です。



2010年3月17日(水)
お彼岸


明日は彼岸の入り、ということで1月にお預かりし漆塗り修復作業中の浄土真宗お東のお仏檀も今週末のお納めに向けて作業は大詰めを迎えています。

漆塗りののち各部品は蝋色(ろいろ:磨きツヤ上げ)や金箔であったり最終の工程を終えて組み上げに入りました。その一部をご紹介します。

こちらは須弥壇の中の彫刻です。



彫刻以外の部品も上がっています。



各所の沿いを見ながら組み上げます。
どの部材にも見えない部分に墨書きで「別」の表記が。このお仏檀はそのとおり「良いお仏檀」でした。ほとんどの仏壇がまだ温かい手造りであった時代の良さにプラスして別注の雰囲気が随所に感じられます。



組みあがった須弥壇部分。
いかがでしょうか。バランスといいますかこれ見よがしではない’良い物感’がお分かり頂けるかとおもいます。
東本願寺派は通例彫刻に彩色はされないことが多いのですが施主様のご希望もあってそのまま活かしています。もちろん埃や汚れをとった後必要なところは修正しています。



戸(扉)だけさいごまで蝋色が残っていました。
蝋色とは、塗りあがった上塗り面をまた油桐・チシャなどの木炭で研ぎ下ろし、種油と角粉(鹿の角を焼いた粉末)を手のひらに付け磨き上げることです。

上塗りは100%日本産漆を使っています。

こちらの画像は一回目の磨き。数回、磨く・漆を薄く延ばす、を繰り返します。




さいごの磨き後。水を張ったように滑らかに上がりました。
戸表(とおもて)はこんな具合に平滑にせず、真ん中を盛り上げる仕上げもあります。ご要望があればそれも致しますが頂くご依頼は「鏡みたいにしてほしい」ばかりです。
この仏檀の場合は昔のものには珍しく、そもそも盛り上げない仕様になっていましたのでそれを踏襲しました。



4枚とも上がりこのあと戸裏の金箔押しに入ります。



この花丸は天井に付いていました。


こちらも各部材が整いましたので組んでいきます。



格子と裏板。
湾曲している板を「まもり板」と呼んでいます。もともと曲がっては造っているものの、かなりきついカーブなので水を裏に塗ってさらに曲げながら、沿うように釘を打っていきます。
このとき厚紙を切り出して一緒に打ち付けます。ナットを締めるときのワッシャーみたいな役割で、釘の頭だけに力が掛からないように’面’で支えるようにするわけです。



裏板が付けば表を向け、花丸を元の位置に取り付けていきます。
この画像ではもちろん天地は逆ですが、組みあがったとき正面から見るものではなくこんな角度(斜め方向)から見えるので、正方形の各マス目の少し奥気味に付ける事でより見えやすくなるようにしています。



格子の下面(したづら)はもともと金箔でしたがここはお東でよくあるかたちの黒で仕上げました。


完全に蛇足ですが花丸は、

もちろん「プラッチック」ではありません。ひとつひとつ木彫りに彩色が施されています。



2010年3月12日(金)
ニンゲン

ここのところよく耳にするイルカやクジラの話。是か否か論じるのはナンセンスではないだろうか。
食べること・食べられること以外にも動物・植物・菌類、すべての生き物と関わっている我々がなぜその2種類の食べる食べないだけを論ずるのか。

わたしは花に水をやりながら腕に止まる蚊を圧殺する。子供に命の大切さを説きながらスギ花粉なんか無くなってしまえば良いのにと思っている。

人間にとって都合が良いかどうか、心地良いかどうか。
結局そうだ、人間の勝手。

「地球に優しく」という言葉がしっくりこないのは、地球そのもの(とそこにある人間以外の自然)を大事にしようとしているのではなく、「人間がいままでどおり住むことが出来る地球」を保とうとする考えだということを分からないようにしている気がするからだ。

何年か前コウノトリの放鳥のニュースがあった。無事ヒナが孵り、ようやく巣立ったので遠くからあたたかく見守ってください、と言っていた。不思議な気持ちになったのを覚えている。これが、例えばムカデのような'害虫'ならどうだろう。絶滅寸前なんです、と言って、同じように繁殖させて森に放すのだろうか。するにしても我々はそれをあたたかく見守れるだろうか。
自分はきっと、家のどこかの隙間から’ようやく復活したムカデ’が出てきたなら、それでも躊躇なく殺虫剤をかける。


結局すべては人間の勝手なんだとおもっている。
人として守るべき道を「倫理」というがもちろんそれをつくっているのはわれわれニンゲンだ。

といって厭世に浸っているわけではない。勝手、で不自然、なニンゲンも自然が生んでいる。
なら生きていいとおもう。
精一杯生きてさえいたらいいとおもう。もちろん感謝の心を持って。



2010年2月26日(金)
厨子製作 その3
 下地研ぎを終え、細かい修正のためさらに堅地(かたじ:漆による下地)を付け、もう一度砥石で研ぎ上げます。

現在はようやく漆の下塗りに入っております。上は仏檀で言うと狭間彫刻に当たる部材です。



 こちらは一体構造の本体。いま刷毛を置いて撮った、塗り上げて間無しの画像です。下塗りなのでさほど埃は気にしません。

 漆は次々と重ねられる化学材料や合成塗料と違い、工程と工程の間に時間(数日から場合によっては数週間)を要します。天然の生きている材料ということで、たとえば一見(あるいは触れてみて)もう乾いている(硬化している)とおもえてもその先のゆっくりとした変化があって、安易に次の工程に進めないわけです。
漆塗りにおいて、急いでろくな事はありませんが、急ぎたくても急げない根本的な理由があるとも言えます。




同じく塗り上げてムロに入れる直前の戸(扉)と屋根の部材。裏と表を分けて塗ります。戸は表、屋根は裏です。



 触られるようになってから、早く見てみたくて錺(かざり)金具を置いてみました。「黒と金」という、世界で日本独自と言って良いこの組み合わせはやはり目に贅沢なものです。
完成が楽しみです。

 中塗り・上塗り・磨き・金箔押しなど、まだ15工程ほど待っております。



2010年2月21日(日)
誓い

近くにいる、近くにある 、
という理屈抜きのしあわせを
いつまでも感じていられるように

繋ぐ手には力を込めて
意地はそっと解いて


平成二十二年二月二十一日、きょうという良き日を忘れずに。

ご結婚おめでとうございます。
心よりお慶び申し上げます。





2010年2月20日(土)
頂く
 きのうNHKで漆掻きのドキュメンタリーを見ました。漆の採取について知識としては理解していたものの、実際の漆掻きの現場やそれに携わる方々を拝見して、漆というものがいかに有難いものかと実感しています。その番組の題にある「命の一滴」という表現が誠にすんなり心に響きました。
 生きているものに傷をつけて、滴(したた)る樹液「漆」。血、とも、涙のようにも感じました。

ものを食べる時に’頂きます’といいます。命を頂きます、という意味と思っています。それと同様の気持ちを漆塗りを生業としている立場として、持たなければいけない。

 漆掻きの職人さんは毎年、漆を採取する季節に入るごとに使う道具や作業着を新調するそうです。お神酒で清めてそして山に入る。
抗うすべもない命から滴(しずく)を’頂く’、その畏敬と感謝の念からでしょう。
そして、一日中ひとすくいひとすくい、粛々と、傷口から染み出て滴る漆を集める。

番組はその四季を追っていました。そこには日本の、日本人の、精神性が滲み出ていました。

「自然と共にある人間」の姿。そして天然材料「漆」。
授かりもの、というと人間本位でしょう。やはり、「頂いたもの」だ、ということ。
そんなことを心に持ち、これからも漆に向き合いたいと思います。この一滴もあの一滴なんやな、と。


 余談ですが、その中で登場していた漆掻きの修業中の若手さんは、昨年の輪島訪問でたまたま知り合い酒を交えた猪狩さん。その道に進むとは伺っていましたがびっくりしました。がんばっていらっしゃいました。手紙でも書きたいとおもっています。




 きょう午後はしばし箆を置き、今月あたまから不定期で開かれている漆の講座の最終日ということでまた大阪まで足を運んでいました。

先々週の第一回は人間国宝(重要無形文化財)の方の生のお話。その人となりと共に深く感じ入りました。
二回目は仏像など国宝の修理に実際に携わられている職人さんが講師のおひとりで、なるほどと学ばせていただきました。
今日は京都の産業技術研究所の方で「漆の可能性を考える」というお題。ヒントになることや気付きがありました。

とても有意義でした。活かせるよう努めます。





2010年2月19日(金)
進捗
 ただいま職場では10件のご依頼が同時進行しております。いつも皆様にご愛顧賜り誠に有り難うございます。
そのうちのいくつかをご報告申し上げます。


 上は新年早々にお預かりし漆塗り完全修復作業中のお仏檀、
順次下地修復が上がり漆の下塗りに入っております。

下地完了時です。もちろんすべて天然漆による堅地によるものです。



 ただいまの状況、漆の下塗りを終えつつあります。ここまでは中国産の漆を使用しております。


 屋根・彫刻・須弥壇・柱等は下地修正後漆の下塗り、上塗りを終えており現在は金箔押しに入っております。画像は箔押し前です。




 模型の屋根も漆の下塗りまで来ています。模型とは言え本式の漆塗りでさせて頂いております。



 淡路の檀尻も順調に進めております。
こちらは屋根周りの彫刻、漆の上塗りが終わり、

ムロで締まり具合を吟味中です。その加減で金箔のノリが変わってきます。
黄色の漆を使っています。色味は今は茶色に見えますが時間経過と共に徐々に黄色に近づいていきます。漆独特の初期変化(硬化)に伴いしょっぱなは濃く色付きます。



 別注のお厨子(ずし)の製作、下地研ぎの段階です。

漆の下地の特長である角や隅のすっきりしたシャープな仕上げで進んでいます。



依頼していたこれまた別注の錺(かざり)金具が仕上がったということで先日、谷口秀作師がお持ちくださいました。

このたびは前回の厨子の金具をベースに透かし部分を増やしていただきました。




仮に並べてみました。思った感じになりました。



屋根部分の微妙なカーブにも現物合わせで型取りし合わせています。



八双金具アップ。とても細かく丁寧な仕上がりをして頂きました。



 日記の更新も手を動かす合間を見てがんばっていきます。



2010年2月12日(金)
たまには本を読もう
 久しぶりに本を買ったという話。

 先日とある漆の講座に参加するために大阪の大学に電車で参りました。移動の車内の時間も有効に使おうと売店で本を買うことにしました。前買ったのは何年前だろう。
さてどれにしようか。

 と、そこは意外に悩まずに済みました。
37年生きてきて、そんな言葉、というかそんな発想などしたことがないという、自分には強烈な題名の覗くその一冊に手は伸びていました。ジャンルとしては社会論でしょうか。

まだ半分も読めていませんがその中で印象に残った一節を紹介します。


>「 ―仕事につく前に、じぶんがそれをすることの意味をこれほど強くは問わなかったようにおもう。
 理由は簡単である。『個性』は何かをするより先にあるのではなく、何かをひたすらくりかえすうちに、そして他人のあいだでもまれるうちに、やがておのずと見えてくるもの、まわりが認めてくれるもの、という思いがあったからだ。名前を他人からもらったように、『個性』も他人から贈られる、そんな感覚がかつてはあったようにおもう。いまは、何かをするなかで、ではなく、何かをする前に、その何かをする『わたし』の存在そのものにどんな『個性』があるかを自問する。」 (鷲田清一)


そして氏は同じく「わたし」というものを論じるその項の中で、精神科医の中井久夫氏のこんな言葉にも言及している。

>「成熟とは、『自分がおおぜいのなかの一人(one of them)であり、同時にかけがえのない唯一の自己(unique I)である』という矛盾の上に安心して乗っかっておれることである。」



’自分の使命に一生懸命になること’に一生懸命になっている自分は、ともすると視野が狭くなるという可能性もやはり内包しているので、本という有意義なものにもたまには時間を取ることも必要だなと読み進めながらあらためて感じています。

いろんな人の日々の体験や研鑽(人生そのもの)を経てこそ得られた知恵や思索に、好きなときに好きなだけ手順もなしに触れられる、
精神的・物理的’発見’はもちろん、確認もでき、物事の捉え方の多様性やそのしくみ(構造)も学べる、
こんな素晴らしいものがわんさと溢れているというのに。